大判例

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札幌地方裁判所 昭和44年(わ)780号 判決

主文

被告人M、同S、同K、同0をいずれも懲役三年に処する。

未決勾留日数中、被告人M、同S、同0については各一三〇日を、被告人Kについては一〇〇日を、それぞれ右各刑に算入する。

理由

(犯行にいたる経過)

北海道大学では、昭和四四年度の入学式を同年四月一〇日に体育館で挙行する予定であつたところ、かねてから現行の大学制度、大学の在り方などに批判的であつた北大クラス反戦連合と称する学生らは、「現在の大学が真理のの探究、民衆に奉仕する学問研究の府たることの本質から遠ざかり、たんに資本主義社会の維持助長に奉仕すべき中堅管理者や技術者の養成機関ないしは企業のための委託研究や軍事目的の研究の場などと化し、かつ学閥による社会的差別を再生産する機能を果たしているのに拘らず、一般の教官や学生らはこのような矛盾を認識せず、又は惰性や利己的考慮から旧態の維持に満足しており、ことに北大では堀内学長が代々木系の自治会、職員組合の支持の下に民主的大学と称しながら、このような矛盾を放置している。このような大学の在り方は根本的に改革し、真に民主的な大学を確立しなければならず、そのための一手段として現在の大学の在り方のシンボルである入学式を実力で粉砕する。」との主張の下に、同日早朝突然体育館に押し入りこれを封鎖して入学式を妨害した。これに対し同大学堀内寿郎学長は、同月一四日全学に告示を出し、「入学式を妨害した学生らは、大学を荒廃に導く暴力学生であり、その行動はナチスの御用学生のそれと軌を一にするものであり、全学を挙げてかかる暴力から北大を守らなければならない。」旨の所信を表明した。このような契機で発生した北大紛争は、その後、沖繩返還、安保条約改定、大学管理立法など政治的、社会的諸問題についての学生らの危機感や、同大学内部のいわゆる代々木系勢力と反佐々木系勢力との対立抗争などとからみ合いながら展開し、同年四月二八日の佐々木系学生らの本拠理学部建物に対する反佐々木系五派連合学生らの投石襲撃事件、同月三〇日の五派連合系学生らのいわゆる三項目要求(前記四月一四日の学長告示、同月二六日のいわゆる予防警戒措置呼掛けに関する学長通達の撤回と学長の自己批判および入学式阻止闘争などを理由とする処分策動の中止を求める要求)と大学当局側の拒否回答、五月二〇、二一日の反佐々木系革マル派および五派連合学生らによる堀内学長軟禁、団交要求事件、その際生じた反佐々木系学生らに対する佐々木系学生らの包囲衝突事件などを経て次第に深刻化し、ついに五月二六日五派連合学生らによる本館(大学事務局)の封鎖占拠に発展した。本館の封鎖は、まもなく佐々木系学生らと同学職員組合員らによつて、いわゆる自主解除されたが、その際の両派の武力衝突によつて代々木系、反代々木系両派の対立は一層激化し、その後七月三日五派連合学生らによつて本館が再び封鎖されたほか、そのころから同年九月下旬までの間に、五派連合学生らないし北大全学共闘会議(反代々木系のうち革マル派を除く学生らによつて、そのころ構成された)の学生らによつて、教養部建物、法文経教育各学部建物、古河講堂が次々と封鎖され、なお図書館も革マル派学生らによつて封鎖された。

これらの学生の過激行動に対して、大学当局は、学長声明や評議会告示などを通じて再三にわたつて非難警告をし又は封鎖解除の要請を行なう一方、これらの過激行動が大学制度などに関する不満に胚胎するものと考えて、大学制度や教育研究体制の整備充実を検討考慮する旨の意見を表明したり、大学改革準備委員会を設置したり、或いは有志の教官や学生委員の教官などを通じて全共闘系学生らとの話合いの端緒を求めようと試みたりしたが、学生らの顧みるところとならず、ことに封鎖解除をめぐつて、封鎖派学生らは大学当局が大衆団交に応じかつ前述の三項目要求を受けいれなければ封鎖を解除しない旨の態度を固持し、これに対して大学当局側は前もつて封鎖を解除しなければ話合いに応ずる余地はなく、かつその話合いは代々木系学生らを含む全学討論集会の方法によるものでなければならないとの態度を堅持するなどしたため、両者一致することができなかつた。こうして紛争は長期化して解決のめどがつかず、その間、大学当局は封鎖未解除のまま教養部の授業再開を試みたが所期の成果をあげることができず、そのため教養部を中心とする学生の大量留年のおそれが生ずるとともに、学内秩序の混乱が原因となつて対立学生間の抗争衝突、傷害事件も頻発するようになつたばかりでなく、いわゆる一〇・二一国際反戦デーにおける兇器準備集合、公務執行妨害事件などに見られるように封鎖建物を根拠として集合した北大や他学校の一部学生らの街頭進出による過激政治行動によつて北大周辺住民に対してまで多大の不安、被害を及ぼす状態となつた。そのため、大学当局はついに警察力を導入して封鎖解除を行うことを決意し、同年一一月七日北海道警察本部長に対し封鎖解除を行なうことを決意し、同年一一月七日北海道警察本部長に対し封鎖建物を占拠中の学生らの排除に必要な警察措置を要請するにいたつた。他方、警察当局においても、同年一〇月二一日の国際反戦デーにおいて過激派学生らが右封鎖建物において火炎びんなどを用意して兇器準備集合罪、公務執行妨害罪などを犯したとの判断に基づき、その捜査として封鎖建物内を捜査、差押、検証する目的をもつて同月五日札幌地方裁判所裁判官から捜査、差押、検証許可状の発布をえて、大学当局の要請による封鎖解除と合わせてこれを執行しようとし、その際予想される学生らの抵抗に対拠するため約二、五〇〇名の警察官を動員してこれに当らせることにした。

被告人M、S、K、Oは、昭和四四年当時いずれも北大に在学していた学生で、北大全学共闘会議に属していたものであるが、同じく北大に在学し、同会議に属していた少年A(当時一九歳)とともに、大学当局による警察力導入による封鎖解除に反対しこれに抵抗するため本館建物内に立てこもることになつたものである。(罪となるべき事実)

被告人ら四名は、

第一、昭和四四年一一月八日午前零時ころから同日午前七時三〇分ころまでの間、前記のように同年七月四日から北大全学共闘会議に属する学生らによつて封鎖占拠されてきた札幌市北九条西五丁目所在の北大本館建物において、同大学学長堀内寿郎の要請に基づく同建物の封鎖解除などの任務に従事するため出動する北海道警察の多数の警察官の生命、身体に対し、共同して害を加える目的をもつて、同建物三階廊下および屋上などに投擲用の多量のレンガ、コンクリート塊、火炎びんなどが準備されていることを知つて、前記Aとともに集合した。

第二、Aと共謀のうえ、

一、右本館屋上に待機中の同日午前六時三〇分ころから午前七時ころまでの間に、被告人らおよびAのうちの三名くらいの者において、本館の北側に存在する、前記本館封鎖のころまで同大学の作業員控室、宿直室、消耗物品庫などとして使用されていた木造トタン葺屋根棟続き建物三棟(同大学第一一四号、第一一六号、第一一八号各建物)の屋根めがけて、数回にわたつて火炎びんを投げつけて、同建物に火を放ち、もつて人の現在しない国有財産である同建物三棟のうち、第一一四号建物(約二二五、七五平方メートル)、第一一六号建物(約一六五平方メートル)の全部および第一一一八号建物(約二〇七、一平方メートル)の東側一部を焼燬した(損害額合計約三九九万円)、

二、同日午前七時五〇分ころ、同大学本館を管理する同学長堀内寿郎から、同大学事務局長吉田勇を通じて、再三にわたり、すみやかに本館外に退去するよう要求をうけたのに拘らず、その要求に応ぜず、同日午後零時三〇分ころまで、本館内にとどまり、もつて不法に退去しなかつた。

三、同日午前七時五〇分ころから午前一一時ころまでの間、本館屋上において、、前記学長の要請に基づく封鎖解除および同年一〇月二一日発生のいわゆる国際反戦デー統一行動に伴う兇器準備集合、公務執行妨害被疑事件の捜査として本館内の捜索、差押、検証許可令状の執行に従事するため出動してきた北海道警察警視鳥居正隆、同岸巌指揮下の多数の警察官に対し、多数のレンガ、コンクリート塊、火炎びんなどを投げつけるなどの暴行を加え、もつて警察官らの前記職務の執行を妨害した。

四、同日午前一一時ころ、前記警察官らの一部が被告人らの妨害を排除して本館の一階内に突入したことを見届けるや予め本館の二階から三階に通ずる東西両階段に多数の角材、椅子、机、ロッカーなどを積み上げて作つていたバリケードに火炎びんを投げつけるなどしてこれを燃え上らせて警察官らの屋上への進入を阻止しようと考え、このような行為に出るならば少くも本館の一部を焼燬するにいたることを知りながら、本館三階廊下から前記両階段のバリケードに多数の火炎びんを投げつけるなどして、これに放火して燃え上らせ、その火勢によつて本館二階の待合室の天井、上部壁、同待合室、庶務課室入口の各ドア枠の一部、三階の東西両階段、会議室、廊下の各天井の一部、三階のリコピー室、倉庫、企画課室、便所の各入口戸枠の一部などを燃焼させ、もつて、一階西側階段のバリケード撤去作業などに従事しているた警察官岸巌ほか約二〇数名の現在していた国有財産である同大学本館鉄筋コンクリート造り建物(総三階建て、延べ床面積約二、五六五平方メートル)の一部を焼燬した(損害額約五八万円、復旧費約三五六万円)、

ものである。

(証拠の標目)〈略〉

(弁護人の主張について)

本件各犯行について被告人ら四名はいずれも一切黙秘しているが、入江弁護人は種々の理由をあげて被告人らの無罪を主張している。以下その主要な点について当裁判所の判断を示す。

(一)  まず本館裏側建物の火災について、同弁護人は、被告人らが共謀してこれに放火したという証拠はない、同建物の火災は当時本館屋上にいた五名のうち何名かの者のその場限りの行動によつて発生したとみるべきであるなどと主張する。

しかしながら前掲各証拠から認められる次の諸事実、

1  当時ヘリコプターに塔乗して上空から被告人らの行動を観察していた警察官安井浩治の証言(第一四回公判)、同人撮影のビデオテープ、同じく本件木造建物の東側電車道路などで火災発生の警戒に当つていた消防士餅川勇の証言などによると、なるほど本件建物に火災びんを投擲していたのは、当時本館屋上にいた五名全員ではなく、そのうち三名位にすぎないが、その投擲の模様は、右三名位の者が本館屋上東北角付近に集まり、その付近にあつた種火らしい火だまりから、火炎びんに火をつけるなどして午前六時三五分ころから午前七時過ぎころまでの間、数回にわたり、次々と本件木造建物めがけて火炎びんを投擲していたこと、これらの火炎びんの中には木造建物に届かなかつたり、或いは届いてもトタン屋根の上であるため仲々建物に着火しなかつたが、そのうちに、火炎びんが建物の一箇所にひつかかるような状態で発火して建物に火がつき、まもなく建物の他の部分にも燃え拡がつたことが認められ、このような火炎びん投擲の回数、投擲していた時間的間隔などに照らすと、これら三名位の者は明らかに同建物に放火する意図をもつて火炎びんを投擲していたこと認められること、そして当時その他の二名位の者も、同じ本館屋上にいたことから考え、右三名位の者による右放火行為を認識していなかつたとは思われないこと。

2  本館屋上から木造建物に対して火炎びんを投擲していたころ、機動隊は北大南門の外側にいて、内側の多数の学生らの抵抗を受け大学構内に突入することができないでいたが、木造建物に対する火炎びんの投擲行為と相前後して本館の東側、南側、西側に木材を積み重ね立木を切り倒すなどして構築していたバリケードに対しても、屋上の被告人らやこれと意思を通じて行動していたと認められる本館周辺の学生らによつて、やはり火炎びんを投げたりガソリンを撤布するなどして、次々と火をつけられていたことが、前掲餅川勇の証言、警察官撮影の一六ミリフイルム、ビデオテープなどによつて認めることができるが、このような情況に照らすと、本館北側の木造建物に対する火炎びんの投擲は、本館周辺のバリケードに対する放火行為と同様、機動隊の構内突入に備えその本館への接近を阻止する目的からなされた行為と考えられること、しかもその後、機動隊が本館に接近してから、被告人らとAの五名が協力して機動隊の本館進入を阻止するため激しい妨害行為を行つた事実に照らしても、木造建物に対する火炎びんの投擲は右五名全員の共同の意思に基づく行為であつたと推認されること。

3  さらに証人八代宏(Aの取調べを担当した検事)の証言によると、Aは同証人の取調べに対し本件犯行を自白しており、これによると、A自身も木造建物に火炎びんを投げたこと、その目的は本館の裏側の防備が弱いからそこに火をつけるならば機動隊がこないだろうということでこれに放火したこと、及び機動隊に対する抵抗の戦術については予め全共闘の代表者会議で何回も討論して決められたとのことであり、A自身は右会議に出席しなかつたのでその評価は分らなかつたが、Aが本館死守隊の一人として本館に入つたのち、本館の三階中程の一二畳位の部屋で被告人ら四人との間で右戦術を確認し合つたと自白していたことが認められる。

以上の各事実、または証拠に照らすと、本件木造建物に対して火炎びんを投擲したのは、被告人らとA五名ののうちの三名位であるが、たんに右三名位のものの独自の意思に基づく行為などとは認められず、被告人らとA五名の共謀に基づく犯行であつたと認めるべきことは明らかであつて、この点に関する弁護人の主張は採用できない。

(二)  入江弁護人は、本館建物の火災についても、被告人らの共謀に基づく放火によるとの証拠はない、本館建物内に火気の原因となる薬品類も多数散乱されていたので、本館内にいた被告人らとAの五名のものが走り廻るなどした際に出火したとも考えられるし、また機動隊によるバリケード撤去作業や放水作業などの際に、薬品がゆれ落ちるなどして出火したとも考えられ、更に裏側木造建物の火災による火勢などのため本館が出火したとも考えられるなどと主張している。

しかし、前掲各証拠から認められる次の諸事実、すなわち、

1  前掲〈各証拠〉などから明らかなとおり、本館の火災は、機動隊が本館一階内に突入した直後に、三階の東西両階段付近から、ほとんど同時くらいに出火したこと、出火の際、両階段付近の窓からおびただしい量の黒煙が噴出したこと、三階廊下、その付近には多数の火災びんやガソリン、アルコール、ベンヂンなどと表示した薬品びんや石油かんなどが置かれていたこと、右両階段付近に電気その他による火気の原因が存在した形跡はないこと、右両階段には予め多数の角材、いす、机、ロッカーなどで機動隊の屋上進入を阻止するバリケードが作られていたこと、出火当時機動隊員約二〇数名が一階内にいただけであつて、三階廊下に被告人ら五名以外の者がいた形跡は、全く認められないこと及び右三階両階段のバリケードの角材やロッカー内の書類の燃焼状況、両階段とその周辺の天井、壁、三階両階段付近の各部屋のドアー枠、二階西側階段付近の部屋の壁、天井などの燃焼状況などに照らすと、本館の火災は、被告人ら、Aの五名全員またはそのうちの何名かの者が三階東西両階段のバリケードの角材などに対して多数の火炎びんを投擲するか、あるいはガソリンその他を撤布するなどの方法で放火したとみるべき可能性がもつとも高いと考えられること、

2、当時、本館一階で、同階西側階段のバリケードの撤去作業などに従事していた警察官小松隆、青山秀士、山田秀雄、岸巌の各証言によると、バリケードの撤去作業に着手しはじめたのち、まもなく、その作業中、三階階段方向から相当数の火炎びんが落下する音が聞こえ、そのうちの数本が階段手すりの間から一階床に落下して火を発したこと、その際、階段手すりの間隙から上の方をみると、一面火の海といつたような状況が認められたというのであり、これらの各証言に、照らすと、本館の出火原因とくに三階西側階段の出火は、三階廊下にいた者の行つた火炎びんの投擲によるものであり、しかも相当多数の火炎びんを投擲したものと推認するのがもつとも合理的であること、

3  本件各犯行の全経過に関する各証拠に照らすと、被告人ら、Aの五名は、いずれも警察力導入による本館の封鎖解除に対し、きわめて頑強な抵抗を行つてこれを妨害する目的の下に本館に立てこもつたものであり、実際にもその目的の下に、右五名が本館出火の直前まで長時間にわたつて、協力して機動隊の本館進入を阻止する行為に出ていること、その一手段として本館裏側の木造建物や本館周辺のバリケードに対して、さらに直接機動隊員に対して、多数の火炎びんを投擲した事実、並びに機動隊が一階内に突入した直後で本館出火の直前、被告人ら五名がほぼ一勢に屋上から外部に対する攻撃をやめ、一階に進入した機動隊への攻撃に転じたと思われる行動に出ている事実および出火ご再び五名揃つて屋上に現われ逮捕されるまでの間一緒にインターを叫び合つたり、外部にアツビールをしたりなどの行動に出ている事実が明らかであり、以上のような被告人ら五名の本館に立てこもつた目的や、出火前後を通じての行動の一体性、共同性に照らすと本館三階両階段のバリケードに対する放火も、被告人ら五名の右の目的にでた共同意思に基づく犯行であつたと推認されること、

4 前掲八代宏の証言によると、Aは被告人ら四名とともに本館死守隊として本館にたてこもり、予め全共闘代表者会議で討議されていた戦術について被告人らと確認し合つたことを自白したほか、その内容について機動隊が本館内に進入した場合に階段のバリケードに火炎びんや薬品の入つたびんを投げつけて抵抗し、かつ屋上の入口から屋上に通ずる階段へ椅子を投げこんでバリケードをすることなどを打合わせていたこと並びに当日実際に行つた行動として、機動隊が移動式小屋を使つて本館に進入したのを見たのち、階段のバリケードの様子をみるため自分だけ先きに三階廊下に降りてゆき東西両階段の状況をみたが、異常がなかつたのですぐ屋上に戻り、それから五人で再び三階に降りたが、外にあつた機動隊の、やぐら様のものを載せた自動車のことが気になり、自分だけが再び屋上に戻つた。そのやぐらの車を使つて機動隊が本館に入るのでないかと思われたからである。しかしそれが使われていなかつたので、再び三階に降りてゆこうとしたところ、すでに途中の階段に煙が充満していたので、下にいた被告人らに早く上つて来いと声をかけて屋上に引返えした。なお機動隊に対する抵抗について、最後に屋上で五人がインターを歌う時間だけを残しておこうという打合わせをしていたなどと自供した事実が認められる。八代証言によると、Aは右のように自白したものの、同人以外の他の被告人らの行動についてはなるべく供述を避ける態度を示していたというのであるが、右の程度の供述に照らしても、被告人ら四名とAが本館死守隊としてあくまで機動隊の進入を阻止すべく、機動隊が本館に入つたのちは階段のバリケードに火炎びんを投擲するなどしてこれに放火することを打合わせていたことが認められる。

その他、被告人、弁護人らから、以上の諸点について何んの反証も提出されておらず、これらの各事実その他本件各証拠に現われた一切の情況に照らすと、被告人らとAの五名全員の共同意思に基づいて三階両階段のバリケードに対し火炎びんを投擲するなどの方法によつて放火したと認定するに十分であつて、この点についての弁護人の主張は採用することができない。

(三) 次ぎに入江弁護人は、本件火災において燃焼したのは建物内のバリケード類だけであつて、建物自体ではない。建物については天井、壁がこげただれただけであつて、本館建物は若干の修理費を投じただけで現になお効用を発揮しており、建物放火罪は成立しないなどと主張している。

しかしながら、建物放火罪が成立するには、なにも建物が火災によつて崩壊したり、その重要部分が焼失してその効用が失われる状態に達することは必要でない。容易に取外し可能な建具類などを除き、いやしくも建物の構成部分の一部が焼燬することによつても成立することは判例上明らかである。前掲各証拠によれば、本件火災によつて、二階から三階に通ずる各階段、三階から屋上に通ずる階段、三階廊下の各天井、二階の待合室、庶務課室、三階の東側会議室、リコピー室、倉庫、企画課室、便所などの戸枠、かもい、らんかん、上部壁などが広範囲にわたつて、火炎を蒙り又は加熱され、そのためこれらの各部の木造部分は炭化し、天井、廊下などの、しつくい部分は剥落したり破砕したりし、その内部の木摺、つり木、野ぶち、つり木受などが炭化し又は焼け落ち、コンクリート部分も焼けただれるなどの状態に帰したことが認められるのであつて、このような事実に照らすと、火炎びんの投擲などによつて火は媒介物たるバリケード角材などを離れて建物の構成部分が独立して燃焼する状態に達していたことは明らかであり、建造物放火既遂罪の成立することは否定しえないところである。

(四)  さらに入江弁護人は、右(一)、(二)に掲げた八代証言中の「Aの供述」につき、(イ)Aが公判廷で証人として宣誓を拒否しただけでは、刑事訴訟法三二四条二項の規定する三二一条一項三号所定の要件である「供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明又は国外にいるため公判準備又は公判期日において供述することができないとき」というに当らない。(ロ)Aが八代検事に対してした供述は任意になされたものではない。同検事から本件当日の戦術内容について尋ねられた際、Aは「自分達が現実にやつた行動がそれである」と述べていたことなどからみて、Aの供述態度はきわめて投げやりなものであり、このような供述は信用性がない。よつて八代証言中の「Aの供述」を証拠とすることはできないなどと主張する。

しかしながら、(イ)については、さきに八代証人の採否決定を行つた際に説明したとおり、刑訴法三二一条一項三号の「供述者が死亡、精神若しくは身体の故障……のため公判準備又は公判期日において供述することができない」という事由は、同規定の趣旨に照らして制限列挙的なものではなく、例示的事由にすぎないものである。本件のようにAが証人として公判廷に喚問されながら正当な理由なくして宣誓を拒否し将来同人から証言を得る見込みが全くないような場合には、三二一条一項三号にいう「供述者の精神又は身体の故障や国外に所在する場合」などと同様、直接の供述を得ることが不可能又は著しく困難な場合に当るものとして、同条文を適用すべきものであり、この点の弁護人の主張は採用できない。

(ロ) については、八代証人の証言によれば、Aは一一月八日に逮捕された後、同月一二日から八代検事が、同人の取調べを担当し、同月一二日から一四日を除いて、二八日までAを取調べたこと、その間警察官も午前中取調べに当り、八代検事は午後から夜にかけて取調べにあたつたが、その時間は一時間から四時間位であり、最も遅いときで午後八時三〇分頃までに取調べを終えていたこと、同検事の取調べに対して、Aは当初は全て黙秘する態度をとつていたが、二、三日目から、氏名、家族関係及び以前に札幌、東京で二回にわたつて逮捕されたことがあるとの前歴関係について語り、更に三、四日位してから北大紛争のいきさつや、これについての自分の考え方などを述べはじめ、同月一八日以降の取調べにおいて本件犯罪事実関係について供述したこと、なおAは右のように当初は雑談に応じるとか身上関係を語るだけであつたが、その後、自分の性格上最後までかん黙をつづけることができないから佐藤首相訪米ごに事実関係を語るなどと言いはじめ、ついに一八日から犯罪事実関係についての自白をするに至つたこと、しかし供述の内容についてはA自身がその範囲を画するという態度をとり、他の共犯者の行動についてはできるだけ語りたくないという態度を示し、A自身の行動を中心として述べたこと、供述により供述調書が作成されたが、供述調書への署名指印は拒否したことなどが認められ、これらの松岡が自白するまでの経緯、自白内容、取調べ状況などに照らすと、Aの八代検事に対する供述が刑事訴訟法三一九条にいう暴行、脅迫その他これに準ずる強制的な方法などによつてなされたものとはとうてい認められない。

また(ロ)のうち、Aの供述の仕方が投げやりなものであつて、その内容は信用できないとの主張であるが、八代証言によれば、「取調べを通じてのAの態度は非常に紳士的であつた。こういう事件の被疑者の中には、こちらがどんな質問をしてもまるつきり答えない、ニヤニヤ笑つたりするようなものもいるが、Aは必ず言いたくありませんとか、黙秘しますとか、必ず、こちらが質問すればそれに応答する。ちよつと、こちらが、からかうというか或いは世間の常識人として君らの行動は感心できんじゃないかという話をすると、むきになつて反論して自分の行動の正当性を述べたりしていた。こちらに対しても非常に誠意を要求した。言葉づかいについても一々文句を言つたりもした、学生運動についての色々な単語についての意味を非常に厳格に考えているんだということで、こちらがそれを不用意に使うと、それは間違つているということを何回も言われたことがある。」というのであり、Aが投げやりな供述態度であつたとはとうてい認められない。弁護人の指摘する「戦術の内容は自分達が現実にやつた行動がそれである」という供述についても、八代証言によれば、Aが最初に自白した一一月一八日の段階で、そう述べていただけであり、その後においては、戦術の内容について、それが全共闘の代表者会議で討論してきめられたことやAが本館に入つたのち被告人らとその内容について確認し合つたことなどを含め、相当具体的に供述していたことが認められるのであり、この点の弁護人の主張も理由があるとは思われない。

その他、八代証言中の「Aの供述内容」を他の証拠から認められる諸事実と対比してみても、とくに矛盾するようなところはなく、かえつて、検察官の論告で指摘されているとおり例えば、屋上に発見されたヘルメットの個数と屋上で行動したものの人数との喰い違いの点や、三階廊下に火炎びんや薬品入りびんが多数おかれていたこと、屋塔入口付近に多数の椅子がおかれていたこと、被告人らが戦術を確認し合つた場所とされている三階施設部長室にあつた酒びんや同室壁の落書のこと、三階設備課室の外窓にかけられていた金属製梯子のことなどは、Aの自白内容によつて合理的な説明が与えられるとともに、その信用性を裏付ける情況事実であるということができる。

要するに八代証言中の「A供述」の証拠能力を争う弁護人の主張は採用することができない。

(五)  なお入江弁護人は、以上のほかにも種々の事由を主張して本件各犯行の成否を争う。例えば本件本館内における捜索、差押、検証の各令状が証拠として検察官から提出されなかつたから、その存否、有効性の有無を知ることができない。令状が存在したとしても本件は北大を警察力の支配下におくため令状執行に名を藉りたいものである。北大学長は建物等を管理する義務を課せられているにすぎなく、かつ学生は大学建物内に立入る権利があり、従つて学長が学生に対して退去要求をしたところで学生はこれに従う義務はない。兇器準備集合罪は学生運動弾圧の目的の本件のような事案には適用されるべきでない。学生が本館から出てきたならば三千名の武装警官が即座に被らの身体を拘束し、かつどのような乱暴を働くかも知れない雰囲気において、学生らに対し本館からの退去を期待することはできないなどと主張する。しかし本件で取調べた各証拠などに照らし、これらの主張はすべて理由がなく、採用することができない。

(法令の適用)

被告人四名の判示第一の所為は刑法二〇八条の二、一項、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示第二の一の所為は刑法六〇条、一〇九条一項に、判示第二の二の所為は同法六〇条、一三〇条後段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示第二の三の所為は刑法六〇条、九五条一項に、判示第二の四の所為は同法六〇条、一〇八条にそれぞれ該当するところ、判示第一、第二の二、第二の四の各罪については所定刑中いずれも有期懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により最も重い判示第二の四の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をし、なお同法六六条・七一条、六八条三号により酌量減軽した所定刑期範囲内で被告人四名をいずれも懲役三年に処する。また同法二一条を適用して未決勾留日数のうち、被告人M、同S、同Oについては各一三〇日を、同Kについては一〇〇日を右各刑に算入し、訴訟費用については刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人らに負担させないこととする。

(量刑の事情)

一、被告人らの本件各犯行が現行法秩序の下でとうてい許容することのできないことはいうまでもない。本館建物の占拠にせよ、警察官らに対する火炎びん、石塊などの投擲にせよ、建物に対する放火にせよ、このような暴力的行為が寛大に取扱われるような社会は凡そありえないであろう。しかも本件は大学当局による警察力の導入が必至と予想された昭和四四年一〇月末ころから、北大全学共闘会議の代表者らによつて種々画策され、これに基づき多数の学生らによつて、本館周辺に塹壕を堀り、バリケードを築き出入口、窓、階段などに様々の障碍物を設定し、多量の火炎びん、薬品、石塊を運び込むなど甚だ周到な準備をしたうえで、敢行されたものであり、しかも当日早朝には警察勢力を分散させるため市内各所に火炎びんを投擲して市中を混乱に陥しいれるなどの陽動作戦すら計画されていたものであつて、きわめて悪質な組織的、計画的、集団的暴力事犯である。これがため大学本館とその周辺は無残なまでに破壊、じゆうりんされ、建物、什器、備品などに与えた損害は一千万円以上に達するようであり、多数の警察官に対し傷害を与えている。一般市民に与えた衝撃、不安も甚大なものがあつたと思われる。

二、本件は北大学園紛争を背景として生じた。その経過をみると、紛争が長期化し激化したことについては大学当局や教官の側にも一端の責任があつたと思われる。例えば入学式阻止闘争の直後の「ナチ御用暴力学生去々、この根拠なき教条を真に受けていたとすれば立証された命題と根拠なき教条とを区別しえない頭の弱さによる云々」の学長告示や、四月二六日のいわゆる予防警戒措置の呼掛けに関する学長通達などは、特別弁護人が主張するように、これをもつて学内少数派に対する言論抑圧であるとか学内戒厳令の施行であるなどと評することはとうていできないが、それにしても従来から代々木系、反代々木系間に種々の対立がありかつ後者から大学当局の姿勢が著しく代々木系勢力に傾斜しているとの強い批判のあつた当時の学内状勢を考慮に入れるならば、右告示は必要以上に学生らを刺激挑発する内容のものであつたということができるし、予防警戒措置の呼掛けについても無用な誤解をさけるためその方法などに種々配慮すべき余地があつたように思われる。その後、紛争は五派連合学生らによる本館封鎖と代々木系学生らと職員組合員らによる実力封鎖解除、その際における両派の武力衝突などによつてにわかに激化した感があるが、このような実力解除じたいにも大いに問題があつたであろう。紛争がさらに激化し、各派の対立が尖鋭化し、学生らが評議会や教官会議に乱入したり、学長、同代理、教養部長らを連行、軟禁又は長時間追及したり、或いは学内建物を次々と封鎖占拠するようになつてからは、大学当局としてもはや施すに策なき状態に陥つたように思われ、しかもその状態で数ケ月が推移したのであるが、その間、大学側のとつた諸々の措置、例えば、教養部学生大会で自治会執行部に対するリコールがなされたような状況の下でなおかつ「学生の総意を代表する者とでなければ話し合いに応ずることができない」といつた評議会の回答や、代々木系と反代々木系の融和など望みえない状態にありながらなお「全学討論集会の形式でなければ話合いに応じない」といつた評議員の提案などは、反代々木系学生らの側からすれば誠意なき態度と受けとられたのは当然であろう。更にマンモス化した大学にとつて免れがたい宿命とも思われるが、大学当局と一般教官、教官相互間あるいは各部局間の著しい意見の不統一と協力の欠如にも大きな問題があつたように思われる。学生の地位の存続する限りいかなる情況に当面してもそれと大学当局との間の意思疎通に邁進すべき筈の教養部学生委員教官らの総辞任、紛争のさなかに発足し相当な覚悟をもつて就任した筈の大学制度改革準備委員らの総辞任、授業再開の実施をめぐる学部間、教官間の対立ないし背反、或いは教養部長と一般教官らとの相互不信などにその一端をうかがうことができる。当裁判所の任務は、被告人らの刑事責任の存否の確定につきるものであつて、被告、弁護人らの期待するように「北大紛争」を審理の対象とするものではない。それゆえ学園紛争の経過などについては最少限度の証拠調べを行つたにすぎないが、その範囲の証拠をもつてしても、右紛争が激化しついに収捨つかざる状態に立ちいたつたことについて大学当局、一般教官の側にも種々の責任のあつたことは否定しがたいように思われる。

三、北大紛争の発端となつた入学式阻止闘争の意義、目的について、被告、特別弁護人らは判示冒頭に記載したような主張をしている。そのような主張が事実認識としてどこまで正確であるか否か及びその思想の当否如何はともかくとして、これを平穏かつ秩序ある方法で唱導することじたいは何ら否定されるべきではない。しかしそのために多数をもつて入学式会場に押しかけ会場を封鎖するような暴力が許されないことは当然である。学長、教養部長らに対する軟禁、追及などの行為、さらに本館その他の建物の封鎖占拠についても、学生らは、大学当局が学生らの団体交渉を求める要求に対し不誠実であつて、尋常な手段によつては団交を実現することができなかつたので、やむなくそのような手段に出たと主張していたようである。とかく余分のエネルギーと激情の奔出に左右され易く冷静で胸襟を開いた論議が困難である団体交渉という方式の話合いが、大学当局と学生らの意思交換の方法として適切なものかどうかは別として、学生らの話合いを求める要求に対して大学当局のとつた態度には柔軟性を欠くものがあつたようである。しかし、それだからといつて学長その他の教官らの人格的自由を侵害したり或いは大学の正常な機能を阻碍するような実力的手段をもつて、これを実現しようとすることが許されるとは思われない。それが大学社会における少数派であれ、多数派であれ一たん、自己の主義主張を押し通おすため暴力をもつて他の意思を圧迫することが認められるならば、恐らくその他の各集団に対しても暴力行使の機会を許さざるをえなくなり、かくては大学は理論と理論の闘争の場たることをやめ、力と力の闘争の場と化してしまうであろう。それこそ大学の本質と自治を根底から破壊するものである。全学共闘会議の学生らは、自己らの主義主張こそ全く正しいものであり、他の学生らや大学当局の主張や見解は全く誤れるものであり、そのことからして自己らの実力行使の正当性を論証するつもりであろうか。そのような論証は恐らく独断であり民主主義を破壊する道に通ずるであろう。

現在の大学制度、文教政策さらに社会政治制度には種々の欠陥があるであろう。当時の北大当局のあり方、施策などにも恐らく種々の問題があつたであろう。科学技術の高度の発展から由来した、現代社会に広汎に存在する諸々の危険と不調和を解決除去するためには、恐らくより高度に組織され、より高度に生産的な社会の建設以外にその途はなく、それがためには、今日ほど若い世代に対して、広い視野と冷静な思考力と深い科学的技術的知識の獲得への志向が期待される時代はないと思われるが、それはともかくとしても、学生らが直接に当面する現実社会の種々相の中に様々の矛盾、欠陥を見出し、その改善、改革のため努力することは結構なことである。しかしことの実現のためにはつねに順序と方法があり、あくまで言論と説得と民主主義社会のルールに従つて行なわれるべきである。しかるに全学共闘会議の学生らは、性急にもこれを無視し、あたかも自己らの主義主張を唯一の真理であるかのごとくこれに固執し、学内の多数の学生、教官さらに国民大多数の意思に反して暴力をもつて自己らの主義主張を貫徹しようとし、ついに判示のような数々の過激な暴力的行動に出て、ついに大学の機能の停廃と学内秩序の混乱を招き、警察力の導入を不可避ならしめたものであつて、誠に遺憾なことである。

四、被報告人らが北大紛争において具体的にどのような役割を演じたが、本館封鎖解除に当り死守隊として立てこもるに際しどのような心情を有していたか、これほど重大事犯を犯し多大の物的人的損害を惹起したことについてどのような反省をしているかなどについて一切黙秘している。しかし本件の経過を通じ恐らく反省の機会もあつたであろう。本件が破廉恥な動機から出たものでないことはいうまでもない。被告人らにはこれまで前科など全くなく、将来それぞれに有為な人材になりうる素質をもつものである。本件によつて生じた損害は甚大であるが、実質上共犯とみられれるべき多数の者らがあり、それらとの共同の行為によつて招来したといつてよいであろう。犯行の態様、規模、結果、その社会的影響などに照らし、その責任は重大であつてとうてい刑の執行を猶予すべき案件とは認められないが、以上に述べた諸事情を考慮して酌量減軽した所定刑期の範囲内で量刑すべきである。

人生における疾風怒濤期にある被告人らにおいては、本件で体験したものを率直に試行錯誤として受け止め決して自暴自棄に陥ちいることなく、柔軟な思考と真の勇気をもつて、さらに内省を深め意義ある将来を開拓することを期待する。

(渡部保夫 斎藤精一)(吉原耕平は転補のため署名捺印することができない)

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